体の70%がLCL、20%が詭弁術、5%が音ゲー、残りは不純物で出来ている筆者がときどき綴るネタ帳のようなもの 
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Endorphin

Author:Endorphin
筆者略記…
MMORPG「メイプルストーリー」の元プレイヤー。

噂に聞く浪人とかいうものになったエヴァヲタです 現在高校四年生驀進中
面白ければ大体のモノには興味を持つ。ここ数年は生物学(特に分子生物)にベクトルが向いてる。
ブログの内容は主に思いつきで何時間か書けて書いた駄文と、ネット上の英文の翻訳。積ん読が増えてきたので、読んだ感想でも書いてみようかと思っている今日この頃

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2010/09/04 00:31    随筆的文章論



 随筆は苦手だ。読む分には古今を問わず面白いものがたくさんあって、筆者達の思考や感情の流れに身を委ね、自由な想像に遊ぶことが出来るのだが、そういう類のものをいざ自分で書いてみようとすると、どうも変な批判精神が働いてしまって、論理の整合性やら、言葉の使い方やらを意識して、やたら鯱張った文を書いてしまう癖がある。特にパソコンを前にして描いている時などがそうだ。簡単に文を消したり継ぎ足したり出来るので、書きながらああでもないこうでもないと余計な推敲が(この場合は、蛇足と言うべきか)重なって、いざ出来上がった文章を見てみると、一体自分はなにが書きたかったんだろうと首を捻ってしまうようなものになってしまっている。

 ここ何年か、趣味で書く文章は全てパソコンで書いていたのだが、そういう悩みが出来てからは全くご無沙汰であった。表向きは「書くことが無い」と誤魔化していても、内心は様々な想念が自分の中で渦巻いていて、それを表現してみたいという衝動が幾度か私をパソコンの前に向かわしていたのだが、自分の文章の扱い方にすっかり自信をなくしていた私は、ある程度のところまで書くと、その余りの拙さに飽き飽きして筆を投げて―この場合は、ブラウザのウィンドウを閉じて―しまっていたのである。

 ところが、ある機会があって、今まで自分がパソコンで書いていた類の文章を、ふと机のそばのルーズリーフの上に書き記してみると、なんともよく筆が進む。鉛筆の持ち方が悪かった私は、中学受験のころ腱鞘炎寸前まで手を痛めてしまってから、紙の上に大量の文章を一気に書き記していくことを何となく敬遠していた。しかし、そのような自筆の労力によって得られた文章は、今までのパソコンでの文章とは大きく異なる、私に新しい文章の形をもたらしてくれるものだった。

 今までの私の文章は、私の頭の中の想念を様々な形で言葉にし、それをそのままキーボードに打ち込み、その羅列から不適当なものを削除し、そうした作業の合間にも思いついたものを無造作に挿入していくという、「意味の組み合わせ」を選ぶ作業ともいうべきものだったのだが、筆―この場合は安物のシャープペンシル―を手に取り、実際に「身体で」文章を書いてみると、書き出しから続いてゆく文章が、急に意味の繋がり、即ち「流れ」を持つものとして捉えることが出来るようになった。

 一体この変化はなんなのだろうか。かつてここで随筆のようなものを書こうとしたが、幾ら推敲しても随筆らしい随筆を書くことは出来なかったのに(そもそも随筆が推敲すべきものなのかどうかが疑わしいが)画面を前にしたときと、今こうして紙上にシャーペンを走らせている時で、「書き方」の違いから「考え方」の違いが生じているのだろうか。

 確かに、それぞれの文章を考察してみると、前者では「断片的・即興的」、後者では「連続的・持続的」な文章、あるいは思考が表れているように思う。かつてここで文章を書いていたときのことを振り返ってみれば、冒頭での話題提起から、思考が様々な方向へと飛火して、それをありのままに書き散らしたところに、何とか連関を持たせようと様々な文を削ったり足したりした挙句、あちらこちらで矛盾が生じてしまって、そこにまた試行錯誤を加えるものだから、結果としてとんでもないものが出来上がってしまうのも当然だったのだ。そうしてみると、私がここで「随筆」を書けなかった理由が明確になってくる。

 私は、意味の整合性や修辞の間違いが怖くて随筆が書けなかったのではない。次々と浮かび上がってくる観念の取捨選択をせずに、ただ何かを思いつくままに書くことが”筆に随う”ことだと思い込んで、それを馬鹿正直に実行した当然の報いとして、文章の破綻に陥り、何も書けなくなってしまったのである。

 今、私が紙にものを書くようになって始めて理解したことは、随筆は”筆”、即ち文章の出力者としてある思考だけに頼って書くものでは決してないということだ。

 もう一度、私の過去の罪跡を洗い出してみよう。パソコンで何かしら文章を書き始めると、私はその文章の内容がよほど常識的なものか、あるいは私の中である程度理解が固まっているものを除いては、途中で書くのを止めてしまうと、そこまで書いてきた流れに沿って再び文章を書き出すことがほとんど出来なかったように思う。途中で途切れた文章に向かって、それを最初から読み返しても、書くに値する内容がほとんど浮かんでこないのである。そのため、一度書き出した文章を最後まで書き上げるためには、ずっとキーボードに向かい合ってないといけないのだが、先ほど述べたとおりの雑多な添削作業が伴うものだから、たかだか趣味のブログ一記事を書き上げるのに、五、六時間もかかっていたのだ。それは言うまでも無く、パソコンで書く文章の、そしてその作業に伴って生じる思考の「即興性」がもたらしたものに違いない。

 ややメタな言い様になるが、こうして紙に書いてみた文章の、なんと迅速なことか。多少の言葉の訂正や添削はあるものの、ここまで大幅な変更は無く一気呵成に書き上げている。何度か休憩も挟んだ。大げさに思うかもしれないが、かつての状況を考えると天と地ほども違っているのである。趣味として文章を書いてきたが、これほど衝撃的だったことも中々無い。

 ずいぶん「随筆的」になってしまった。話を「随筆」に戻そう。そのように、紙で文章を書き始めて思ったことなのだが、随筆はやはり”筆”のみに随うものではない。自分が綴ってきた思考の流れ、即ち書いている文章そのものの支配をも受けるのだ。一つの話題提起から始まり、その提起から生じた自分の思考が文章に現れていくのだが、文章を進めてゆくにつれて、自分が今までに書いてきた思考の流れそのものが、今考えている内容を規定してゆくのである。そのような、私自身が私自身の文章と対話することによって、また新しい文章が綴られてゆくという、実に単純かつ本質的な事に、私は「文章が趣味」と自称しながら気付いていなかったのだ。

 それは、私がパソコンで文章を書いていたからなのだろうか。単に私の文章力が、あるいは思考力が、付け焼刃の行き当たりばったりなモノだったからだろうか。

 ところで、文章を綴る際には、削除、訂正、挿入といった作業が伴うものだが、その付随している作業そのものが自分の思考に相当な影響を及ぼしうるのではないだろうか。すなわち、「削除」は自分の一時的な思考を否定するものであり、「訂正」「挿入」は一時的な思考に多少の変更を与えようとするものであって、この単純だが文章作成の基本となる作業において、作業の動作主となるモノが「消しゴム」や「挿入符」であるか、あるいは「Backspace」か「Copy&Paste」であるかが、己の思考の投影としての文章に変化をもたらし、その結果思考の振る舞いまでもが大きく変容してしまうのではないだろうか。

 このようにして、Backspaceキーのあの一押しの軽さと、消しゴムで紙をゴシゴシと擦るあの重さは、私にとっての随筆のあり方に、更には私の文章全般について新しい視野をもたらしてくれた。しばらくは、紙の上に文章を書き続けてゆくつもりである。

 だがそもそも、私は何故文章を書きたいと思ったのだろうか。最後に、少し実験的な方法で、自分が文章について考えていることについて「対話」してみたい。

 人が文章を書く動機というのは実に様々だが、誰であっても、その根底となる何かを表現したいという「想念」は共通している。ブログとは違う、"紙の"日記 のような、自分しか見ないきわめて個人的な文章の類であっても、そこには紙上に自分の思いを連ね目に表れるものとして表現して、自らを" 対自化"したいという意思が現れるものである。この対自化こそが、文章という具体的物体と、思考という頭の中の観念的実体をつなげる鍵ではないだろうか。

 私の場合、まさにこの文章について言う場合、私には文章について表現してみたいという想念がある。それを頭蓋の中から取り出し、筆を通して紙上に―この場合はキーボードを通して画面上に―言葉を連ね、文章として具体化し、その個人的な想念をもっと一般的なものに―観念から経験へと投射することによって、私は、文章に文章を語らせようとしているのだ。しかし私は、イデア界から現実界に一方的に想念の投影を続けるわけには行かない。私は、映し出される文章と対話しなくてはいけないのだ…

 ―ここで私は気付く。自分の想念を文章に表現したいという、その「想念」が強すぎるあまり、想念の「具体化」という目的をもってして書き始められた文章が、余りにも観念的に過ぎていることにだ。事前説明もなくアンフォルメルの映画の上映をして、訳も分からず戸惑っている観衆を前にして独り喜んでいる映画監督のようなものだ。そこで、私は文章に手を―正確に言えば、「修正が必要だ」という想念の実行を―加える。それは具体例の提示であったり、一般的体験の挿入であったりする。書きたい内容を少しでも具体的事象の地平に引き摺り下ろすことで、文章を少しでも実態に近いものとして表現しようとする。

 ―しかし私は再び気付く。その例示は、本当に読む人間の一般的な体験と結び付けられるものであろうか?"具体”例が余りにも個人的に過ぎれば、それは現実世界の体験であっても、読み手の想像を喚起するものとはならない。アンフォルメルの映画とはどのようなものか?まず読み手がそれを想像できない。―実を言うと、私自身も想像できない。ならば、もっと具体に即した例を…ここから先へ続く作業は、語らずともお分かりだろう。

 以上のようなやや実験的な修辞を用いて、私は「文章と対話」することを文章で表現しようとしたわけだが、実際のところ、この修辞のあり方すら文章との対話の「議題」となる。上の文章の目的が「文章を文章で表現する」ことにある以上、自己言及のパラドックスからして、メタな議論が延々と続くことは避けようが無い。観念を実体に写す手段―多くの場合それは『芸術』と呼ばれる―は数あれど、おそらく、そのいずれの手段も窮極の表現には至り得ず、そうであっても完全なる表現を求めて無限の探求を続けていくという、数学における「極限をとる」ようなものなのだろう。ゆえに、ここまで書いてきた私の文章は、目的そのものが破綻をきたしており、幾ら表現しようと躍起になっても、具体性の平面には決してたどり着くことの無い、「実数解無し」の文章となってしまっているのかもしれない。

 だが、それでも私は書かずには居られないのだ。まるで呪いの如く、私の表現の意志は紙上へ、キーボードへと私の身体を駆り立て続ける。多分、その形はどうあれ、私は一生文章を書き続け、文章との対話を続けていくだろう。文章を通じて、それを書いた私自身と対話し、更には、空間、時間を越えた他の人々と対話していくために。







紙に書いたものを文章化して、こうしてブログに上げてから気付いた。このブログ人に文章を読ませる気ないですよね(笑)

取り合えず今年一年の前半のまとめとしてこの文章を書くことにした。また機会があれば、書くことがあるかもしれない。

とりあえず今日はこの辺で。

~END~


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問一、次の文章は(1)~(4)で「生物多様性」をテーマとした一まとまりの文章になっている。段落ごとのつながりに注意して、それぞれの文章を英訳せよ。辞書は使用してもしなくてもかまわないものとする。


(1)
 生物の暮らす環境というのはなかなか奥が深いもので、我々が普段ある特定のイメージを抱いている現象が、それらの現象の元となっている生物からすれば全く異なった解釈が可能であったりする。これらの相対的な評価に関して、私は「清潔さ」という点に注目して述べることにしたい。我々が普段「不潔だ」「汚い」とみなしている汗臭さなどの体臭や口臭、または皮膚に現れる水虫などの厄介な状態は、それらの原因を作り出している微生物たちにとっては、自分たちの反映を妨げるほかの生物が一掃された、この上なく「清潔な」空間なのだ。むしろ、我々が一般に清潔だと看做している多くの状態は、種々雑多の雑菌が一つの環境―あなたや私の肌や口の中など―で競合、抑制しあうことによって生じる一種の均衡状態であることが多い。即ち、微生物達にとっては不潔とは言わないまでも「不純な」環境だ。これは微生物に限ったことではなく、我々人間やその他多くの動植物を取り巻く環境においても同じことが言えるのである。例えば、人間以外の生物を極力排した、きわめて「清浄な」空間―現代の都市や病院の治療室、食品工場のクリーンルーム―が我々の生活にもたらしたのは、真に「清潔な」状態であっただろうか?

(2) 
 都市公害や耐性菌による院内感染、集団食中毒といった事例が我々に教えてくれたのは、一つの種が独占的に利益を得ることの出来る単一的な環境を保つことの困難さだ。思うに、生物とは、環境に適応するために自身の姿を徐々に変化させてゆくと同時に、自身を取り巻く環境に働きかけ、それを少しずつしかし絶えることなく変化させ続けるものなのだろう。たとえ人間が単一的な環境を一時的に作り出すことが出来ても、必ず別の生物が入り込み、その環境を存分に利用して新たな勢力圏を作り出すだろう。しかも、作られたその人工的な環境が純粋であればあるほど、新たな侵入者の勢力は大きくなるようなのだ。コンキスタドーレス―彼らが新大陸に持ち込んだ病原体が現地の人々に多大な被害を及ぼしたという歴史上の事実が、このことを確かに示している。

(3)
 これと同様のことで私が危惧していることに、ジェンナー以後の精力的な厚生事業によって地上から根絶された天然痘の問題がある。一部の研究機関ではこの病原体がいまだに保管され続けているといわれている。もしこれが流出し世界に広がるようなことがあれば、すでに免疫を失っている我々は、SARSや鳥インフルエンザと同様に深刻な被害を受けることは明らかだろう。やはり、現代の我々が抱いている「清潔さ」についての考えを改めなくてはならない時なのだ。免疫について触れたが、人間は成長の過程においてさまざまな異物に触れ、それらを体内に取り込むことによって新たな抵抗性を獲得してゆく。その際にはもちろん、子供達が安全な生活を送れるだけの一定の清潔さは求められる。だが単に清潔さを求めるだけでは、却って彼らを潜在的な危険に晒すことになってしまうのである。

(4)
 ここまで私は、環境の単純化が孕む危険性について指摘してきたつもりだ。では、我々は一体何を意識しなくてはならないのだろうか。一言で言えば、それはまさに「多様性」である。森林や海洋における環境だけではない、皮膚や口腔、体液中といった体内環境においてもこれは欠かすことの出来ない要素なのだ。元はといえば、我々も多様性の申し子である―種々の遺伝子、種、そしてそれらの間に見られる様々な関係性の中で生まれたのだから。そしてその関係性は、あらゆる生物があらゆる形式を持って個々の生息場所で自身の環境に絶えず働きかけ続けてきたことの結果として得られた動的平衡の表れなのである。平衡状態を築いている一つの要素が取り除かれると、別の要素がそこに割り込んできて、新たな平衡状態が生まれる。そのような繊細微妙な関係の中に、潔癖主義の名の下に無理な力を加えて作り出された人工的状態は、本来の状態と比べて著しく不自然であるだけではなく、我々が本質的に持つ自然の平衡状態をかき乱し、著しく変化させてしまうものでもあるのだ。




問二、次の文章は(1)~(4)で「知識と応用力」をテーマとした一まとまりの文章になっている。段落ごとのつながりに注意して、それぞれの文章を英訳せよ。辞書は使用してもしなくてもかまわないものとする。

(1)
 あらゆる学問の目的は、その学問の対象となる物事を体系付けて理解するといった単純な作業にとどまるものではない。人文科学であれ自然科学であれ、また社会科学であれ、個々の学問にはこれまでに費やされてきた莫大な時間と労力の賜物である知識体系が存在している。そのような体系はもちろん、学問をするにおいて相当量の修得と理解が必要とされるものであるが、その修得そのものが「学問をする」という行為だと誤解している人が案外多い。一般的なイメージとしてある、「学者⇒物知り」の通念は、まあ学問を率先して行う人間であるから当然としても、その逆、即ち「物知り⇒学者」が同様に通用するとは限らないのである。

(2)
 むしろ、そのような知識先行の「博識的人間」は、学問をするにおいて決定的な壁にぶつかる運命にあるのだ。というのも、現代の学問は余りにもその躯体を大きくしてしまっていて、一人の人間が、その情報量はともかくとして(人間の記憶のキャパシティについては、まだまだ謎の部分が多い。意識的に記憶を取り出すという作業が仮に必要なかったとしたら、我々の扱いうる情報量はそこらの高性能機器をはるかに上回るだろう)、その全ての体系を網羅する物理的時間を手に入れるのは、当然のことながら不可能である。

(3)
 もう一つの理由に、全ての学問は無理だとして、ある分野の中で特定の専門を扱いその知識の下で現実の物事に接する際には、自身の知識体系に無い道の事象が必ず現れてくるものであり、そのようなものを如何にして自分の中に取り込み、学問の新たな構成要素として取り扱えるようにするかというのは、知識体系を積み上げてゆく能力とは全く別物であるという事実がある。というよりも、こちらの能力こそが、学問において真に求められる能力―人間の”知”を太古の昔から形作ってきた、人間を人間たらしめている本質的な能力ではないだろうか。

(4)
 一つの分野、事柄にとどまらない幅広い知識を持つのは確かに必要だ。しかし上で述べたように、「知識を深める」ことは「学問を深める」ことに対する必要条件とはなっても、十分条件にはなりえない。それを心に留めて、私自身「学問してゆく」ことにしたい。








解答は・・・まだない!と言うか問一の一段落作っただけで死にそうになった 自分で書いた文章、しかも英訳しやすいように文体作ったはずなのにこんなに訳しづらいとは・・・ しかしこの夏が終わるまでにはなんとか・・・

あ、英語力に覚えの在る暇人が訳してくれるなら大歓迎です。



単発的でしたが今日はこの辺で。


~END~




七月分更新。こういうふうに更新するネタがあるのは良いのだけれど、他に書くことが殆ど無くなってしまうのは少々寂しい気もする。まあところどころで時間を見つけて続行中。






(原文:"Nonmoral Nature" By Stephen Jay Gould)

URL:http://www.stephenjaygould.org/library/gould_nonmoral.html



 寄生バチは、成体では大半のハチと同様に自由に飛び回って活動するが、その幼虫は、他の動物、それも殆ど例外なく自分と同属の節足動物の種の体内から栄養を摂取する寄生虫として生活する。最も多く犠牲となるのは、芋虫(チョウやガの幼虫)であるが、一部の寄生バチにはアブラムシや徘徊性のクモを好むものもある。殆どの宿主は幼虫のころに寄生されるが、成虫が狙われることもあり、その場合大量の寄生蜂の幼虫は宿主の卵から直接体液を吸う。

 飛行している寄生バチの雌は、適当な宿主を見つけると、それを自分の子供達のための食料工場に変えてしまう。寄生虫の研究者達は、宿主の体表に招かれざる客が棲み付くことを外部寄生(ectoparasitism)と呼び、宿主の体内に寄生虫が棲み付くことを内部寄生(endoparatsitism)と呼ぶ。内部寄生をする寄生バチの場合、雌の成虫は宿主を卵管で刺し、卵を産み付ける(卵管は、ハチの腹部末端から後ろ向きに伸びている細い管であるが、多くの場合それはハチ自身の体と同程度の長さがある)。普通、刺された直後は宿主に別段不便はない。少なくとも、卵が孵り、寄生バチの幼虫がその恐ろしい体内掘削の作業を始めるまでは。

 だが外部寄生のハチの場合、多くの雌は卵を宿主の体に直接産み付ける。よく動く宿主なら簡単に卵を取り除くことができるので、寄生バチの母親はしばしば芋虫や他の犠牲者を麻痺させる毒を同時に注入する。毒はおそらく半永久的なもので、芋虫は自身の腹部に将来の破滅を約束する物体を抱えて、生きたまま動けなくなる。卵が孵ると、無力な芋虫は身をよじらせるが、寄生バチの幼虫は芋虫を刺し、そして恐怖の宴を始めるのである。

 死んで腐敗していく芋虫は何の役にも立たないので、寄生バチの幼虫はある様式に従って食事をする。その様式は、不適当な人間中心の解釈とはいえ、古代イングランドでの反逆罪に対する処罰―生きたまま感覚がある状態を保ち、能う限りの苦痛を引き出すという明確な目的のもとに、罪人の体を引き伸ばし四つ裂きにする―を否応なく我々に思い起こさせる。王室付きの死刑執行人が罪人の内臓を引きずり出し火にくべたように、寄生バチの幼虫は、生命維持に必要な心臓と中枢神経は無傷で残して芋虫を生かし、最初は脂肪組織と消化器官を食べる。最終的には、幼虫は仕事を完全に済ませて犠牲者を殺し、食べつくされて空になった芋虫のもとを去る。蛇でもライオンでもなく寄生バチこそが、自然神学の最盛期においての神の慈愛という考えに対する優れた問題提起となっていることに、疑いの余地はないのだ。

 19世紀や20世紀の寄生バチに関する文献を読み通すにあたって、寄生バチを人間的な言葉で表現すべきではないという理知的な認識と、叙事詩や物語の表現、苦痛や身の破滅、犠牲者と征服者といったなじみの区分を文学的あるいは感情的に使わずにはいられないという状態、これらの間にある緊張感ほど私を楽しませたものはなかった。我々は自分達の文化が保持している物語に囚われてしまっていて、基本的な文章表現においてさえ、闘争と征服と言う比喩の他には、いかなる他言語の表現も殆ど使うことができない。我々は、寄生バチの身の毛のよだつような恐怖と、その魅力的な要素を一緒にして、大概は芋虫への同情よりもむしろ寄生バチの能力への賞賛だけで済ませてしまうために、この自然界の歴史の一部分を物語として表現することしかできないのである。

 大半の叙事詩的表現に見られる二つの基本的主題、つまり、犠牲者達の足掻きとそれに対する寄生虫の無慈悲で能率的な仕事について考える。我々は、無意識的な本能、あるいは生理的な反応に過ぎないものを観察していると認めているにもかかわらず、それでも宿主の防衛行動を、まるで彼らが意識的に抵抗しているかのように表現する。例えば、寄生バチが卵管を差し込もうとすると、アブラムシはそれを蹴ったり、芋虫は激しく身をくねらせたりする。一般的には、身動きの取れない生物は変態の時を静かに待つと考えられているのだが、ヒオドシチョウ(tortoiseshell butterfly)のさなぎに至っては、攻撃したハチが空中に降り飛ばされてしまうほどに素早く腹部を回転させたりする。Hapalia(ツトガ科のガ、和名不明)の幼虫は、Apanteles machaeralis(多分コマユバチ科の寄生バチのどれか、和名不明)に襲われると、突然葉から落下して、絹のような糸で自身を吊り下げる。それでもハチはその糸を下ってゆき、卵を産み付ける。宿主の中には、産み付けられた卵を、凝集後に固化する体液中の細胞で覆ってしまい、そうすることで寄生虫から身を守っているものもいる。(続く)



参考リンク:寄生バチ(wikipedia)
        寄生バチの話(昆虫の話)


*前回の訳の修正 第二段落一行目「最大級の挑戦」→「優れた問題提起」
 後の方の文脈でchallangesの意味を取り違えていたことが分かったので変更。





普段やっているテキストの文章は、英語を専門としている人のキチンとした訳が付いているから良いけれど、こういう解答が与えられない文章を自分で訳するというのはなかなか怖い作業でもある。今までに何回か翻訳作業はしてきたけれど、その都度とんでもないミスを犯しているに違いない。

まだ英文の微妙な解釈について議論ができるほど実力が付いている訳でもないので、本当に意味が分からない内容があった場合はどうぞ原文の方へ…

まあ、今回はまだ上手く訳せた方か。前回は引用文中で神学用語が出たり単語がやたら複雑だったのでところどころ崩壊しているけれど、寄生バチの説明がメインの之はそこまで苦労しなかった。



とりあえず今日はこの辺で。続きはまた一ヶ月以内に


~END~


 




再び和訳作業開始。スティーブン・ジェイ・グールドの非公式ファンサイトから引用したものを、時間が空いたときにチマチマ翻訳して行く予定。前のはA4二ページだったから一記事で間に合ったけれど、それでも一段落で一時間くらいかけて数週間かかった。今回は7ページもあるので、到底その程度では済みそうに無い。まあ、片手間に垂れ流すクソ訳を晒すことで自分の英語力と日本語力の稚拙さを実感するのがこの翻訳作業の意義なので、作業の遅さは気にしないことにする。

今回は補注は付けないことにした。文脈あるいは単語の意味が取れなかった部分は、なるべく文章が乱れないように配慮して辞書中の表現のままで訳している。





(原文:"Nonmoral Nature" By Stephen Jay Gould)

URL:http://www.stephenjaygould.org/library/gould_nonmoral.html



 ブリッジウォーター伯であったフランシス・ヘンリー尊師閣下は、1829年に死去された際、「天地創造を成し遂げたもうた神の偉力、叡智、そして寛容」について記された一連の書籍のために8000ポンドを遺贈された。イングランドにおける最初の公的な地質学者であり、元ウェストミンスター寺院首席司祭であったウィリアム・バックランドは、そのブリッジウォーター伯の九冊の大著のひとつを執筆するために招聘された。この本の中で、彼は自然神学において最も切迫した問題について議論していた。それは、もし神が慈悲深く、その創造が神自身の「偉力、叡智、そして寛容」によるものであるのなら、どうして我々は苦痛に満ちた一見無意味に見える動物界の残酷さに取り囲まれているのだろうということである。

 バックランドは、「肉食種」の捕食は、ライオンが子羊とともに暮らすような理想的な世界という概念に対する優れた問題提起であると考えた。肉食動物は「動物達の享楽の総和」を実際に増加させ、「彼らの苦痛を減少させている」と主張することで、彼にとって満足のいくように論点を解決したのである。というのも、死は迅速で比較的苦痛の少ないもので、犠牲者は老いて耄碌することによる害悪から免れ、そして動物の個体数は彼ら全体のより大きな不幸に対する食糧供給を上回ることは無い。神はライオンを創りたもうた際にはその行いの為される意味を知っておられたのである、というわけだ。バックランドは喜びを隠しきれずにこう記している。

「…故に、肉食動物の働きによる、動物の一般的な生の終わりとしての死の役割は、それがもたらす主な結果において、慈悲深い神の定めであるように見える。それはあらゆる死における苦痛の総合量を大幅に減らしているのだ。獣の天命の全てにおいて、捕食による死は病や不慮の傷、あるいは長期にわたる堕落といった不幸を低減、または殆ど根絶していて、結果として個体数の急激な増加は抑えられることになる。そうして、食料の供給は需要に対してしかるべき比率を永続的に保っているのである。この結果、地表面や海中の深遠が無数の動物で満たされ、これらの生き物達の幸福は限りなく広がることになる。そして生物は、彼らに分け与えられた束の間の存在の間中ずっと、己の創造における役割を喜びの元に果たすのである」

 今日バックランドの考え方は我々にとっては何か愉快なまじないの類のように思えるかもしれないが、そのような主張は、バックランドと同時代の人々の多くにおける「邪悪についての問題」―慈悲深き神は如何にしてかくなる殺伐とした血塗れの世界を創りあげたのか?―に確かに取り組み始めていたのだ。しかしこの主張は邪悪の問題を完全に解決するものではなかった。というのも、自然界には単なる捕食よりもはるかに我々の眼に恐ろしいものとして映る多くの現象があったからだ。私が思うに、体内の寄生虫によるゆっくりとした破壊、すなわち、体の中から少しずつゆっくりと蝕まれてゆくことほど、我々の大多数にひどい嫌悪を抱かせるものは無いだろう。私が説明しているのは他でもない、平凡なC級映画、それもお決まりなホラー映画のエイリアンが、どうして前述のような恐怖をもたらし得るのかということだ。エイリアン氏が宿主の人間の中から寄生虫の幼体として飛び出してゆくのは、気持ちが悪くとても衝撃的なシーンである。19世紀の我々の先祖も、これと同様の感情を抱いていたのだ。彼らの慈悲深き造物主という概念への最大の挑戦は、捕食に限らず寄生虫の侵食による緩慢な死に対しても行われていた。あらゆるナチュラリストの大家が詳細に論じてきた、その典型例として引き合いに出されるのが、いわゆるヒメバチ類である。バックランドはこの問題の主要な部分には言及を避けていた。

 その、自然神学者たちの間にそのような関心を呼び起こしていた「ヒメバチ類(ichneumon fly)」は、さまざまな種族の習性を示す複合的な種である。ヒメバチ上科(The ichneumonoidea)とは、ハエ(fly)ではなくハチ(bee)の分類であり、脊椎動物全体よりも多くの種が含まれている(ハエは翅が二枚、対してハチは四枚であり、ハエは双翅目に分類されている)。さらには、ヒメバチ類以外の多くのハチにおける類似した習性が、同様の恐ろしい行動の詳細な部分に見受けられるのだ。このように、例の有名な物語は、単独の常軌を逸した種(ひょっとしたらそれは、悪魔の領域から漏れ出た非合理の存在かもしれない)を暗に示しているだけではなく、何十万種もの生物―神の創造によってのみ生し得た莫大な数の生物―をも示しているのである。(続く)








では今日はこの辺で。追記は例によって


~END~



孤独は思考をバグらせる、というのはなかなか的を射た言葉であって、予備校、あるいは家の机で淡々と作業をこなしていると、ここでは書けないような妄想の類が突然奔流の如く沸き起こってきて、頭の中がそれでいっぱいになってしまうことがある。よせばいいのにそんな現実逃避に身をゆだねてしまう。あっという間に時間が過ぎる。しばらく白昼夢をさまよった後、再び現実に帰ってきて己の不甲斐無さを嘆く、そして作業に戻る。再び思考が渦巻き始めるころには、さっきの夢はとうに消えうせている。時々、これは書いても、「表現しても」良いんじゃないか、という考えが思い浮かぶことがあっても、自分の中の考えは脈絡無く無造作に流れてゆき、いつの間にかその考えは消えうせてしまって、ふと気が付いてみると、最初に考えていたこととは似ても似つかないようなものが思い浮かんでいたりすることがある。

このいわゆる思考の流れをひたすらに文章にしてゆくのがまさに「随筆」というモノなのだろうが、どうも自分は「書く」文章を「考える」時に、一まとまりの文章は全体は論理と言う明確な骨組みで組み立てられるべきもので、その母体となる思考も、その文章の論理と付き合わせたときに矛盾が生じないように、キッチリとベクトル方程式のように現されるべきだと考えていた。

しかし今自分はこの文章を書きながらつくづく実感している。自分の考えをそのままに漢字かな混じりの文に呼び起こすことと、頭の中にある、もしくはあるように「思っている」観念を論理的にあらわすこととは天と地ほどの差がある。今までにここで書いてきた文章を省みるに、「論理的」であろうとしたものはたくさんあるが(それが実際に論理的だったかどうかは別として)自分の「生」の思考の流れを佳く現すことのできた文章はほとんどなかった。この場合、自分にとって文章を作るというのは、本質的には巨大な混沌といえる己の思考の流れを、可能な限りの客観を得て厳密に(実際のところは相当にいい加減なものも沢山あったが)検証してゆく作業だったといえる。考えてみると、これは「日記」、特に「ブログ」一般の文章とは対極にあるものだ。自分はブログというモノをやっていながら、その中で積極的にブログを否定していたのである。その矛盾が別段自分に特殊な影響を及ぼしたわけではないが。そのような論理的整合性を求める作業が、自分の思考能力にとっての良いトレーニングだったことは事実である。

ただ、自分がブログを自己否定していたのは、自分のナマの考えを無防備に晒すことに対する内面の恐れもあったのだろう。「ラブレターは夜に書いてはいけない」という言葉があるが、この文章は全く以ってラブレターだ。言い換えれば、相当に随筆的だ。後になって見返してみたら、その支離滅裂な内容、眼を覆いたくなるような誇張表現に羞恥を覚えるような内容だ。しかし自分が後でどう恥ずかしかろうと枕に顔を埋めようと、その瞬間の「ナマ」の思考がこのように現れている以上、記事の消去以外にそれを否定する手段は無いわけで、それは自分では積極的に意識されえない本質的な部分を否定してしまうことになる。それだけは許されない。

昔「自分には"interesting"は書けるかもしれないが"funny"は書けない」と書いたことがある。実際はどうだろう。興味深い「論理」を書けたとしても、面白いのはやはり「人間」ではないだろうか。その人間の「ナマ」が現れる部分ではないだろうか。今の自分がどっちを書きたいのかは、よく分からない。こういう文章が書けるようになっているあたり、昔よりは正直になっているとは思うのだが。やはり、ラブレターは夜に「そこはかとなくかきつく」って、「あやしうこそものぐるほし」く書くべきかもしれない。恋路の行方は別にして。


~END~


追記は例によって

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